勝海舟の虚像と実像
一般的に知られる、間違った咸臨丸の航海イメージについては、文倉平次郎が『幕末軍艦咸臨丸』を出版した時期の時代背景が、フィクションを作り、それが軍備拡張のまっただなかにあった日本にとって絶好の宣伝材料であったこと。
勝海舟の虚像と実像は、藤井哲博著『小野友五郎の生涯』で、ある意味では幕府にとって是非必要な存在だった。それは巧みな弁説をもって周旋・調停する能力である。 咸臨丸の航米では、艦長としての無能ぶりを暴露して、帰国後海軍からていよく追放された。それが文久二年(1862)軍艦操練所頭取、続いて軍艦奉行並みに返り咲くことができたのは、大久保越中守忠寛にとり入り、その推挙によったからである。しかし、軍艦操練所では、海軍に無能な勝海舟が頭取や奉行並でこられるのは困ると、教授方にストライキをやられた。当時は、「勝の本領は政治的調停人で、昔も今も海軍はただ籍をおいたにすぎない」ということは、消息通は誰でも知っていた。と書かれています
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