昭和35年は、日本とアメリカ合衆国が結んだ日米修好通商条約の批准書交換百周年に当たるところから、日本政府は練習帆船日本丸と海王丸の二隻を、日米百年記念親善使節船としてアメリカへ派遣することを決めた。日本丸は、新見豊前守一行の道程にしたがい、パナマ地峡を経てワシントンとニューヨークを訪問し、記念行事に参加した。海王丸は、咸臨丸の航跡を辿って、サンフランシスコとホノルルを訪問した。 昭和36年、日米修好通商百年記念行事運営委員会は、『万延元年遣米使節史料集成(全7巻)』を刊行し、そのなかで咸臨丸関係資料も総括している。その第4巻には『奉使米利堅紀行』(木村喜毅)、『亜墨利加行航海日記』(赤松大三郎)、『安政七年日記』(水主小頭石川政太郎)、『異国の言の葉』(火焚小頭嘉八)などの外に、木村摂津守の従者・長尾幸作の日記『鴻目魁耳』、同従者・斎藤留藏の日記『亜行新書』も収録している。また第5巻にはジョン・マーサー・ブルックの『咸臨丸日記』(原著名:KANRIN MARU JOURNAL)を収録している。この日記は、アメリカ海軍大尉ジョン・マーサー・ブルックが、部下10名とともに咸臨丸に同乗し、横浜からサンフランシスコまで航海したときの記録である。 これらの航海日記のうち、日本人士官の書いた日記類は体面を重んずる武士らしく、ブルック大尉の『咸臨丸日記』にあるような船内のトラブルなどについては一切触れていない。ましてや、ブルックらの献身的な努力についてはほとんど記録していない。ところが、木村奉行の従者であった長尾幸作や斎藤留藏は日記のなかで、ブルックらのことや咸臨丸乗組員のことを率直に書き遺している。 文倉平次郎は『幕末軍艦咸臨丸』(昭和13年刊行)のなかで、長尾幸作の『鴻目魁耳』から「衆人皆死色、唯亜人之輩、言笑する」を引用し、この航海がいかに難航海であったかを紹介するにとどめている。『幕末軍艦咸臨丸』が出版された昭和13年は、日本が海軍軍備制限に関するワシントン条約およびロンドン条約を脱退してから2年後のことであり、軍備拡張のまっただ中にあった日本海軍のことを想えば、文倉平次郎もそれ以上のことは紹介できなかったのであろう。 咸臨丸の往路航海は荒天続きで難航したが、同乗したブルック大尉の適切な指揮と彼の部下らの活躍によってかろうじて危機を脱し、無事サンフランシスコに入港した。ブルック大尉はここで下船することになるが、彼はそれまでに、咸臨丸の復路航海―日本人のみによる大洋航海―を憂慮し、往路航海の途中から綿密な計画を立てて咸臨丸乗組員に対するシーマンシップ教育を実施した。また、メーアアイランド海軍造船所においては咸臨丸の徹底修理を造船所司令官に依頼し、さらに咸臨丸士官に復路の航海計画まで指導していたのである。 この咸臨丸の初のサンフランシスコ航海は勇気ある日本人の快挙であった。しかし、その成功の裏にはさまざまなドラマがあり航海の継続を危ぶむ場面もあった。本書ではそのドラマを紹介しながら咸臨丸の世紀の大航海成功の真相を探ることとする。(「はじめに」より抜粋) |