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中島三左衛門は権田宿の街道に面した南側、一番屋敷の名主池田長左衛門の家の門前より、僅に西寄りの二十二番屋敷で通称「山三」の酒造家三左衛門の長男で文化十三年生まれの五十三歳、村の組頭、百姓代、名主格とも言われた人望家である。妻ふさは水沼村の青木の長者と言われた下平浅右衛門の長女である。姉あさは同じく酒造家で名主の佐藤籐七に嫁いでいる。子供はさい十七歳と、二女みき十四歳、それにさいの夫である長男涛市は婿養子で、藤岡の本動堂の名主小島籐兵衛の息子である。即ち名主佐藤籐七の末弟か甥にあたる三十八歳、この婿とさいの間に娘が一人生まれたが、夭折した(後に明治五年、三十郎が生まれ弁護士になった。)他に川浦の名主で山上という酒造家宮下孫右衛門の長男、宮下折之助二十九歳が酒造の修行に来て同居していた。
三左衛門は五十三歳という分別盛りの年齢の上からも、隊長にはもっとも適してる。娘さい(父と行動共にすることになる)を残して家族は全員川浦の宮下家か、又は水沼の下平家に非難したと思われる。それを裏付ける事実として留守中の中島家も家具等一物残らず薩長軍に掠奪競売されてしまったのである。(『小栗上野介一族の悲劇』小板橋良平著より)